第5回松阪カルチャーストリートの所感
- Saitō Museum
- 5 日前
- 読了時間: 13分
更新日:1 日前
サイトウミュージアム学藝員 田中善明
松阪カルチャーストリートは今年で5回目となった。いつものことながら、芸術の持つ力とは何なのか、なぜ我々にとって芸術は必要なのかという問いに対して、このイベントが何らかのものを提示できているのかが気になって仕方がない。ただ、この5回の積み重ねにより周囲の受け止め方に変化が表れ、期待の声が寄せられるようにもなってきたのはたしかである。そして、いざ開幕してみると、これらの問いに対する「考え方」として今回の展示作品から、いくつか教えられたことがあった。
その一つは、何らかの答えを即座に求めるのでなく、じっくりと佇(たたず)むことの大切さである。こうした芸術祭の場合、その多くが初めて出会う作品である。これらを前にして、今の自分が無意識にどういった反応を示すのかという、第三者であるかのように自己を観察する絶好の機会ともなりうる。それと同時に、作家の制作過程を想像しながら追体験を試みる貴重な機会でもある。
とりわけ美術館のようなホワイトキューブではなく、古い家屋の空間で、何をどのように生み出すのか。これまでさまざまな自己の課題にとりくみながら表現を行ってきた作家たちが、突然こうした環境での発表を依頼された際、最初は何の構想もない無の状態であるのは当然である。そこから、おぼろげながら何かミストのような粒状のイメージが少しずつ湧きだし、像が結ばれていく。そして、数々の構想を経て表現としての物質や映像、音声へと変換されていく。まさに、作家がその場で佇み、ゆっくりと思考を重ねていった行為の疑似的な追体験、想いを馳せることによって、旧家旧宅に潜む歴史的な気配をも感じ取ることができるようになる。佇むことで何かを感じ取ることの体験、このことこそが松阪カルチャーストリートの存在価値であるような気がする。
私たちは作家自身ではないのだから、作家がどういった意図で制作したのか、その真意に到達することなど叶わない。あるいは作家自身も作品として提示しながら、それらは完成形ではなくて、今後も揺れ動くような途中経過の仮の姿なのかもしれない。芸術は答えがすぐには求められない、正解のない世界を求め続ける性質の分野である限り、絶対的な完成はなく、いつも完結の無い途上のものである。ただし、この完結しない、閉じられていないことが人間の在り方や可能性の探求へとつながっている点は重要であろう。
いずれにせよ、今回の出品作家の多くは制作期間が非常に限られた中にあって、自身の関心やこれまでの表現の課題だけでなく、展示する場や空間を見つめそれらとの関係性を熟考してくれた。
旧長谷川治郎兵衛家では大正座敷広間に本年1月に逝去した山本莞二の《光の風景04-1》が展示された。山本は松阪市出身で三重県の前衛彫刻を牽引してきた功労者である。本作はいくつもの磨き上げられた真鍮が、何かの生き物のようにうごめき寄り添っている。電灯から受け取った光を高い効率で反射させ、光のたまり場を形成する。彫刻そのものの空間以外に新たな別の光の空間をつくる。歴史というものが生命の伝達によって成立していることを風景として暗示してくれているかのようである。
その座敷広間に面した庭は、鈴木律子による初の屋外展示となった。楠と彩色による数多くの雫(しずく)の物体は、重力とはほぼ無関係にさまざまな方向へと設置され、しばらく佇んでみないことには全容がわからない。中空に浮いたように見えるその支柱には山本莞二の遺品が使用されていて、今回のインスタレーションは山本へのオマージュや追悼の意味も込められているのだろう。雫の球体とは反対側の、彩色の無い木肌が露わになった部分の彫りは痛々しくもあるが、クマザサなどの庭木の中に同化しているそれぞれの雫の塊は、子供たちが楽しく遊んでいるようにも見え、決して悲しみを湛えただけのものではない。さらには自然の循環や輪廻転生を想起させるなど、鈴木の今回の作品は様々な解釈を可能にする自由度の高さが伺える。
そして、座敷広間の奥に展示されているのは瀬永能雅の屏風と掛軸である。1930年代あたりから、日本画は展覧会場での洋画と形式をあわせるかのように大型の絵画が主流となった。伝統的な日本家屋との親和性の高い屏風や掛軸は生活空間から次第に姿を消した。今回の瀬永による八曲一隻の屏風は、かつて誰かが使用していた無地の銀屏風を入手、その画面に浜辺を彷徨する狼の群れを描く。屏風の前には生地である熊野七里御浜で数回に分けて採取した石がジオラマのように配置された。誰かの生活の痕跡である屏風を再利用し自身の表現を重ねることで過去とのつながりが生まれ、加えて取材地の浜辺と実物である自然の石との交信が、瀬永が近年モチーフとし続けている狼の存在と呼応する。
旧小津清左衛門家は6名の作家が展示した。そのうち、伊賀を拠点に制作を続けているのは元永紅子と藤原康博の2名で、今回初めて参加を依頼した。
元永も藤原もアトリエがある伊賀市内の歴史的建造物での展示の経験があり、場の空間を最大限に生かしたインスタレーションの魅力がこの松阪においてもけん引役になることを期待しての依頼であったが見事に応えてくれた。
元永紅子の作品では、単純な組み合わせの集まりが複雑で味わいのあるものへと変換されていく、天才肌的な思考に触れることができる。逆から考察すると、何重にも鎖が繋がれたかのような、一見複雑そうな事象に対しても、少しずつ鎖を外していけば、単純なユニットで構成されているということを教えてくれる。そして、単純色や形が持つ力の強さを示しながら、それらが集積することで生まれる繊細な変化。家屋の構造から生物のDNAの構造に至るまで、単純と複雑を往還することの面白さを作品が教えてくれる。
藤原康博は三重県立美術館や国立国際美術館などの企画展に選出され、すでに評価を得ている作家であるが、松阪出身で今もしばしば松阪の変化を見続けていることから、招聘作家でありながら郷土を知る貴重な存在である。今回は松阪市飯高町にある水屋(みずや)神社に伝わる伊勢と大和の国分け伝説に想を得て構成された展示であった。松阪を含めた伊勢の国は至る所が天照大神を主役とする神話の舞台となっている。大神が礫石(つぶていし)と呼ばれる巨岩を軽々と持ち上げて、櫛田川に投げ入れたところ大量のしぶきが上がり滝のように落下したと伝えられている。人知を超えた壮大なスケールの伝説は、神々の存在を恐れ敬う目的もあろうが、何より人々の想像力を刺激し固定観念を解き放つ重要な役割を担い続けてきたことは、芸術の世界と共通していよう。藤原は松阪市大垣内町の神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)を描いた絵画、礫石に見立てた黒石、布袋などの神々を象ったプラスチック製品、ミニチュアの祠などを室内に設置。絵画やオブジェが生み出す「目には見えない」結界や関係性を創造することは、現代美術の重要なエレメントのひとつであるが、藤原自身が数年前に眼を患ったという経験によってさらにこうした感覚が研ぎ澄まされたかと思えるほどの鋭さを伴っている。
平松嵩児は前回より参加している、現在松阪市在住の作家。流木とテラコッタが組み合わさった彫刻となっている。流木は自然が年月をかけてつくりだした造形物で、木々の成長、倒木、そして水や石といったモノとの接触、日の光による膨張と収縮などを経ている。言わば自然界の記録された姿である木の形状からインスピレーションを得て、木々の記録を受け継ぐことを土台にして作品は成り立っている。そして今回平松は、同じテラコッタという素材を用い船形埴輪などを作りだした宝塚古墳の遺跡を訪れ、当時から変わらないものとは何かを想像しつつ船と人間というモチーフが生まれたという。前回と比べると、流木が発する自然の声に対する従順度というべきか純度が上がったように感じられる。
西村怜奈は10年前に三重県立美術館で開催された「三重の新世代2015」に最年少で選出され銅版画を出品した。高校時代に松阪に通い、近年市内のカフェで個展を行うなど、この地とは継続したつながりを持っている。今回は手作りの家々や工場、電車を象ったミニチュアの立体作品の集積によって四畳半の茶室が埋めつくされている。一方、1畳の床の間は海沿いの町に見立てられているようだ。線路は分岐していることから、松阪の町だと見えなくもない。しかし、注意深く観察すると電車の上にも家が立ち並び、町中にも船が設置されている。その上には雲があり、雲の上には半透明なアクリルの家、さらに天井から吊り下げられた惑星のような球体にも家がたち並ぶ。このような過去と現在、未来、そして現実と非現実な空間はありそうでありえないが、現実と空想の中で生きる我々人間にとっては、これが真実の世界かもしれないことを示唆してくれているようでもあり、西村の効率化を求めない制作手法がその思考を補強している。
高木鈴香の今回の作品は複数の人物などから構成されている。前回までの木彫での彩色やワニスが抑制されたからか、ノミの彫り跡がよく観察できる。昨年の作品がピカソの《泣く女》を彷彿とさせながら、時に人間のプライベートな空間での泣くという感情の表出について考察したのに比して、今回は人物の表情が抑えられている。これは、他人との関係性を意識した環境下で、人は自分というものを押し殺し、演じることを強要されるという、社会的な行為についてのゆがみを造形化しているようにもみえる。アフリカ彫刻のような呪術的なるものの神秘性を湛えながら身体はえぐられ、過剰にデフォルメがなされた表現は、まさに激動を生きたピカソら20世紀美術のエッセンスである。それらはすでに多くの作家が追随し、派生的な展開がやり尽くされたかに思えなくもない。だが、木彫という純粋な造形手段も含めて実はまだやり残したことが多くあるのではないかということを高木の作品は想起させてくれる。
齋藤勇介は今回初出品となる。大学での卒展や修了展では展示する現場にて焼成し、その変化していく過程や、焼成後の周囲に残された煤などをも含めた痕跡も作品の一部となっていたようだ。展示されたのは屋外であるものの指定史跡という制限があるため提示できる表現方法に制限がかかることになることは最初から了解の上であっただろう。だが、却って鑑賞者は金網から強く押し出された土の造形やテクスチャ、物質そのものが持つ根源的な力に集中することができたのではないかと思う。
上記2会場の商家とは離れた、殿町に残る原田二郎旧宅は3名の作家による展示である。
名嶋憲児は木版画家としてその実力が知られ、和歌山県立近代美術館や福岡市美術館、そして当館などに作品が収蔵されている。版画作品では目には見えない気配のようなものを感じさせる表現が多い名嶋が、これらの歴史的建造物から何を感じ取り、形にしていくのかが楽しみであった。依頼を受けた名嶋は時間をかけて展示予定の空間と対峙した。そして室内の暗さの中に人間の感受性がゆっくりと吸い込まれていくことで自身や鑑賞者に何か気づくことがあればとの願いを持ちながら制作したという。床の間の船に乗った人物像が描かれた掛軸は、まさに消え入りそうな作品であり、そのことを象徴しているように思える。インフラとしての電気がない時代であれば、人々は薄暗い室内で過ごすことが当たり前であっただろう。夕暮れ時に障子越しの光が次第に弱くなっていき、周囲のかたちや色が曖昧になる時間をゆっくりと感じ取る経験。昔日の人々と現代人と感性の隔たりはそうした経験によるところが大きいことを示唆してくれているようだ。
田中小枝は名嶋と同じ1階が使用されている。乾燥させた陶土を野焼きによって焼成する、縄文から古墳時代にかけての主流であった作陶方法が採用されている。合成樹脂が流通する以前の建物は自然素材の集合体であり、もっとも原始的な手段の焼き物との、ある程度の親和性は予測できたことであった。しかし、通常の原田旧宅の空間に個々に選定された陶器が設置されることによって何が生まれるのかは、作家によって異なるのは当たり前であり、田中の作品が持つ迫力と繊細さがどのように反応するのかを見たかった。結果は、歴史的な重みを増幅させた居心地の良さである。ずっと眺めていたいという気持ちにさせるその要因は、名嶋の作品とも共通するが、吸い込まれていくような感覚なのであろう。様々な邪念とでもいうものや頭の中でうごめく雑多な情報が少しずつ消え失せる過程の心地よさ。色調や形のわずかな変化がもつ魅力が備わっているとともに、そのわずかな違いを感じ取る力が試されているようでもある。
そして、2階は詩人の村田仁による展示である。今回は本居宣長や佐佐木信綱といった、いにしえの言葉や文字を研究した人々の感性に想いを馳せることをテーマにしていたこともあって、視覚芸術を主とする作家以外に依頼することが念頭にあった。とは言え、松阪市出身の村田は絵画制作を行ってきた点や、現在芸術大学で後進の指導に当たっている点で、こうした展示に対する理解は他の詩人とは大きく異なる稀有な存在である。村田は実業家原田二郎の経歴の中で語られる「遊学」という言葉と、2階部分が増築され書斎となっていることに惹かれ、自身の作品を「遊学の増築」と名付けた。目的をもった勤勉な学習ではない、遊びの部分を自身のこれまでの経験と重ね合わせた詩を作成。朗読した音声をLPレコード盤のA面(日本語)、B面(英語)に焼き付けた。鑑賞者はその場でレコード針を操作して再生するという動作が要求される。LPジャケットや歌詞カードは手作りで、床の間にはみやげ物店で購入した安価な掛軸に英語による手書きの詩が付されている。書斎全体にアナログな空気が漂い、さらにはジャケットの絵柄や掛軸の貧弱さが目に付くが、そこに遊びの感覚の原点とでも言える崇高さを覚える。掛軸の詩を敢えて英語にしたのは、馴染みのない何かを補強するという作者の意図があったのかも知れず、その難解そうな世界へ向かって一歩踏みこんでみる行為こそが遊学の原点であることを伝えてくれているのかもしれない。松阪を舞台とした本居宣長や梶井基次郎などが、知の醸造になぜ2階という空間が選ばれたのか、ということにも思いを巡らせることのできる機会となっている。
今回は、サイトウミュージアムの近代絵画と彫刻をメインとなる3つの会場に合計4点を展示した。そのうち、原田二郎旧宅には笠置季男(1901-1967)のセメントによる抽象彫刻《作品15》を選んだ。松阪では1979年~1983年にかけて松阪青年会議所、松阪市と三重大学教育学部彫刻研究室による松阪彫刻シンポジウムが行われた。現在も松阪中部台運動公園や松坂城跡、市役所に当時の作品が残っている。芸術が生活の中に溶け込んだ身近な存在であることを願った官民協働の試みであった。それから40年以上の時を隔てて松阪カルチャーストリートの名のもとに松阪市や法人、民間との実行委員会により組織運営されている。この不思議なつながりを少しでも思い起こす機会になればとの願いも笠置作品に込めた。
現代に生きる我々が何かを表現し続けるには、歴史の参照なくして継続可能な方向性は見えてこない。とりわけ、明治から昭和にかけての近代の芸術は現代の感性や思想や制度に直結している。近代から現代へ、何が息づき、何を捨ててしまったのか。そのあたりを同じ建物空間で検証するのは意味のあることであると考えたい。



コメント