ブルーのおはなし。
- Saitō Museum
- 6 日前
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こんにちは、新人学芸員のそがです。
5月16日からサイトウミュージアム・ピース展の後期展示が始まりました。
展示替えのタイミングで多くの作品のメンテナンスが行われ、ご来館いただく皆さんにより一層楽しんでもらえることを願うばかりです。
さて、私がサイトウミュージアムで働き始めたのは今年の4月から。学生時代には浮世絵に用いられる色材や文化財資料の劣化原因を探るような研究を行っており、作品と言うよりかは物質と会話し、制作された時代の文化や出来事に思いを馳せてきたのでした。その中でも色材(絵具や染料)などの分析はロマンが詰まっています。
例えば、ヒロシゲ・ブルーなど浮世絵師の名を冠した青色を御存じでしょうか。これらの青色はプルシアンブルー、ベロ藍などとも呼ばれており、フェロシアン化第二鉄を主成分とする人工顔料紺青です。18世紀初頭にドイツ(プロシア)・ベルリンの染色・塗料職人が、赤い顔料をつくろうとしていたときに偶然発見された青色顔料でした。 日本には延享4(1747)年に輸入されました。ベロ藍が使用されるまでの浮世絵においての青は、露草や藍など植物性の色材が用いられていましたが、どうやらこれらの色材は発色や定着が難しかったらしいのです。対してベロ藍は、鮮やかな色を保ちつつ、濃淡で遠近感を表現しやすく、変色することがなかったようです(写真1参照)。そして、偶然の産物であったベロ藍という物質は、浮世絵界に革命を起こし、世界を魅了することとなったのでした。また、ジャポニスムを開花させた発端の一つである浮世絵師による壮大かつ繊細な表現力や、摺師による超絶技巧の発展に関して、ベロ藍が一役かっていることは明らかです。このように、物質の発展は芸術に自由を与えることがしばしばあります。
そして、サイトウミュージアムで働きはじめたことによって出会ったブルーがもう一つ。
こちらの青は、前述したベロ藍のように、表現に自由を与えた新たな物質ではなく、ある画家が既存のブルーを巧みに操り、独自の表現を確立していたことから、その名を冠しました。その名も「エビハラ・ブルー」。ある画家とは海老原喜之助のこと。海老原喜之助は、日本の洋画家で鹿児島県出身。大正末期から昭和にかけてフランスと日本で活躍していた人でした。ちなみに、サイトウミュージアムにも何点か所蔵されており、ミュージアムピース!!展にも展示されています。海老原による青を用いた表現方法に関して、海老原喜之助展を開催していた三宅美術館の解説によると、「1923年、フランスへ渡った海老原喜之助は藤田嗣治を訪ねます。当時、藤田は白の下地に墨線で描いた画面「グラン・フォン・ブラン(すばらしく深い白地)」によってパリ画壇で高い評価を受けていました。白地と墨による繊細な線描という日本の伝統絵画の要素を油彩画に活かした技法で「日本人」としての自己確立を異国の地で確かなものにしていました。その影響を受けた海老原は、別の方法による日本的なものでパリ画壇に挑戦を試みました。思考錯誤の末、白と青(ブルー)で東洋水墨山水画の情緒を織り込み、筆墨の強弱で表現する水墨技法を取り入れ「日本」を西洋絵画に同化させる表現に辿り着いたのです。これが エビハラ・ブルー シリーズ です。1933年、海老原は世界恐慌のあおりを受け10年間のパリ生活を切り上げ帰国しましたが、帰国後はエビハラ・ブルーの作品を描くことはありませんでした。*¹」とされています。実は当ミュージアムの海老原喜之助作品の中にも一点のエビハラ・ブルー「雪山」が所蔵されております(写真2参照)。一面の銀世界となだらかな峰々、雪原に落ちる青のコントラストは自然的でとても美しく、晴れ渡った空が、その天井に触れるほどの雪山を雄大に演出しているように見えます。私にとってエビハラ・ブルーは、物質との対話ではなく、作品が持つ表現や作者の思い、独自性と対話するきっかけとなった青色なのでした。
2025/05/17 執筆 そが


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